1月17日

この日が来ると毎年思いがつのります。

 27年前の今日、阪神淡路大震災がおきました。もの凄いドーンという音とともに揺れが来て目が覚めて、しばらく縦揺れがすごく、その後、もの凄い声で父が必死に「地震や」と言いに来たことを今でも鮮明に覚えています。

 当時、高校3年だった私が通っていたのは兵庫県西宮の高校で、この日から休校になりました。3学期は全部で17日間しか学校に行っていません。この年は後に「ボランティア元年」と言われるようになりましたが、学校もないわけですから私もボランティアに応募しました。TVで見たYMCAのボランティアに電話して応募し、配属先は大阪市内のとある建物内での食事の準備や被災者の話し相手でした。神戸市内の高齢者施設から避難の受け入れをしている所だという説明を受けました。悲壮な思いで安全な場に来られた方々でしたが、家族や知人から離れ、なじみのない仮設の場では、どれほど心穏やかに過ごしていただけたのか、今でもわかりません。ここにけっこう通ったあとボランティア仲間やコーディネーターの人たちから勧められ、神戸市内にボランティアに行く機会を得ました。

 神戸市内ではヘルメットと防塵マスクをつけて、まずはボランティア募集の小屋のような所に行き、たくさんの募集の張り紙から自分ができそうなことを選ぶ所から始まりました。いちばん多かったのは「お風呂マップの作成」、手段は“手書き”。出来上がった地図を見てまた手書きして、何枚も作りました。引越の手伝い、避難所の炊き出し、小学生に勉強を教えるというのもありました。そして、ある程度経った日から「合同葬儀のお手伝い」という仕事が多くなりました。被災者の人数が多く、普通にお葬式もあげられない事態、たぶん親戚でもなくご近所さんどうしの亡き人達を合同で、大丈夫な家や集会所などにお坊さんにお経をあげてもらうくらいの簡素なお葬式でした。設営やお茶出しのお手伝いにすすんで手を挙げたものの、あの時のことは今でもつらい記憶です。

 お風呂屋さんの再開をお手伝いする楽しく明るいお仕事にも参加し、徐々に公園の炊き出しも活気あふれるようになっていく変化を目にしました。これが復興なのだと今ふりかえると思えます。

 人のあたたかさ、強さ、団結と助け合いの力を知りました。そして、ボランティアは被災地だけでするものでもなく、いろんな所でいろんな関わりがあり、いろんな内容があることを学びました。近年、災害が起きてボランティアが動く時、その責任とかマナーについて議論されることがあります。私は「どの場所でもやることはある」「自分にできることに専念すること」がたいせつだと思います。

 長文、乱筆ですが、この時のボランティアで出会った人たちと学びあったことが、今の仕事につながったのだと感じています。被災者のみなさま、ご遺族・ご家族、そして関係するすべての方々が心穏やかにすごせるようお祈り申しあげます。